今の純文学がダメだなと感じたワケ

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読んでいるだけじゃわからない。
実際に小説を書いてみて、だからこそ気づくことも多かった。

純文学というのは、ことごとく無駄に満ちている。
まず形式ばりすぎている。
純文学には形式というものがあり、「ここを脱すると純文学ではない」という基準が、確かにある。
ただその基準は、明確ではないね。
読んだり書いたりしているうちに、一種のセンスとして心身に身につくものだ。
たとえば会話文のあとに、いちいち「~とAは言った」のような表現をいれなければいけない、とかね。

このセンス、はたして本当に必要なものなのだろうか?
まずこれ、クリエイティブな活動とは言えないね。
精密さがものを言うから推敲がたるいし、正直退屈と言わざるをえない。

もう根本からして、コンセプトが間違っているんだよね。
ハイカルチャーの大体は変化を恐れる。
だから発想も概念も固定化、陳腐化しやすい。
最近では型破りな文体で新人賞をとる人が多いけれど、結局そういうのがだいたい一発屋で終わるのも、ひとえにそうした理由じゃないかな?
なんともブレブレな状況さ。

なんであれ、ネット上の文筆のほうが魅力的と感じたのは、こうした推敲や形式にこだわる時間をかけるのがくだらない、と感じたからなのだろうね。
ネット上なら、本当にノリでどんどん書いていける。ストレスもない。

なにより現実的な問題として、報酬が全然違うのさ。
本の印税報酬と、ネット上の文筆でのアフィリエイト報酬や商材報酬。
圧倒的に後者のほうが効率がよすぎるからね。
前者は労多くて益少なし。

小説家になって稼ぐよりも、ネットの文筆で稼ぐほうがよっぽど楽。
少なくとも新人賞をとるよりも、ネットで月50万円以上を稼ぐことのほうが楽ということは、実例である僕を見ていればわかることだろう。
それくらい難易度や快適性に、違いがあるのさ。

時流がもう書籍よりネットである以上、純文学へのこだわり・優先順位は、自分の中ではだいぶさがっている。
ただ今でも、まったくこだわりがないわけじゃないんだね。
それはいったいなぜなんだろう?
自分でもちょっと、よくわかってない。
でも「僕こそが純文学だ」と言いたいなにかが自分の中にあることだけは、確かだな。
哲学や思考、生き様、そうしたものを集積したものが、純文学だと思っている。
逆を言えば、これさえ体現されていれば、あとは時代に応じて変わっていけばいいのさ。
大衆文芸やサブカルとの差をなくしてしまい「形式ばらずに面白ければいい」という風潮に、変えていけたらいいな。

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自分の好き嫌いにこだわってはいけない

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時代の潮流というものが変わっていくように、人間一個人の好き嫌いもまた変わっていく。
だから人が求めるものも、どんどん変わっていくことになる。
つまり変化できない人間というのは、いろんな人から見捨てられてしまう運命にあるということ。

にもかかわらず、人間って基本的には自分にしか関心がない。
自己分析とか自分の好き嫌いとかね、そういうものにしか目を向けない。
そういう人達はだいたい余裕がないから、他人のことなんていっさい眼中にないんだね。
「他己分析より自己分析が好き」は、稼げない、モテない、夢をかなえられない、という人の共通点のひとつ。
若いときであればあるほど、他己分析や他人の好き嫌いには目をむけたほうがいい。
10代の子供がアイデンティティーの確立に時間を注いでばかりなのは性質上仕方ないけれど、20代、30代と大人になってもまだこんなことを続けているのは、肩をすくめちまうね。
子供の段階で他人のことをしっかり考えられる人になっていれば、成功はだいぶ早期のうちにやってくる。

好き嫌いなんてね、どんどん変わっていくものなんだよ。
1年もしたら別のモノにはまってたり、飽きていたり。
もともとは理系科目が好きだったけれど、気がついたら文系科目が好きになっていたり、好みのタイプが胸の小さな女の子から、胸の大きな女の子に変わっていたり、はたまたゲームばっかりやってた人が、お金持ちになったとたん、いろんな異性とデートするようになったり。
そんなことは世の中、いくらでもある。
世間もそうだけど自分という存在もまた、そんな風にちっぽけにできているのさ。

自我同一性なんてものはない。
そのことに気づけた人がいちはやく幸せを手にする、それはたしかに言えることだね。
よしんば自我同一性があると思いこんでいる人も、だいたいそんなものは頑固を押し通しているだけにすぎないんだからさ。
ずっと同じ場所から動かずにいると、当然思考も停止するし、発想も陳腐になるだけ。
脳にカビをはやしたくなければ、はやくこんな負のスパイラルからは脱却すべきだね。
必要とあらば、周囲の人間関係や環境を変えるすらいとわない。

諸行無常。
自分なんてものは無でいい。
不特定多数が求める自己を、常にクリエイトしていく。
そのほうがいろんな人に好かれるし、お金を稼げればモテたりもする。
だから自分なんかよりも、他人を分析することのほうが大切なんです。

変わることを恐れてはいけない。
他人からの影響は、素直にうけいれよう。

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子供が勉強をしない最大の理由

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たとえばみんなはキャッチセールスで、ある商品を「買え」と言われたら、素直に買うかな?
それとおんなじ。
勉強だって親や教師からしつこく「やれやれ」言われてるうちは、子供は絶対にやろうとしない。
こんなことは当たり前の心理だ。

だからもうね、そこからして根本的にまちがっている大人というのは多い。
四六時中、子供に「勉強しろ」と言ってる大人はセンスがないので、なおさら子供からは煙たがられる。
それが子供のためになる嫌悪感ならともかく、子供のためにもならない嫌悪感というのは、本当になにもうみださない。
ただの大人の自己満足。
子供にとっても大人にとってもマイナスだね。

勉強も恋愛もセールスもね、誰だって興味のないものには手をだそうとしないもんだよ。
だから毎回別の記事で言ってるように、モチベーションを強化することのほうが大切なのさ。

「買え買え」と言われると買わないし、「やれやれ」と言われるとやらない。
実はこうした心理というのは「限定性・希少性の原理」に基づいてもいる。
発展途上国の子供たちが勉強をしたがるのは、勉強できる環境自体がそもそもないからだろう。
日本の子供たちのように、おしつけにも等しい環境がある場合は、やりたがらない人のほうが多くなる。
むしろこうした状況で受動的に勉強しちゃっている子供たちは、流されやすいとすら言えるので、将来大人になったときに自立能力があるかどうかが怪しいね。
学歴はあってもなかなか稼げない、モテない、生活水準があがらない、という人が増えているのは、こういう背景があるからだ。

ある特定のことができない環境だと、その特定のことが無性にやりたくなる。
これは勉強のみならず、マーケティング、恋愛、あらゆることに言える。

理想的なのは、その対象の魅力を紹介するだけに、とどめておくこと。
「勉強しろ」とか「買え」とか「つきあえ」とかは、言ってはいけない。
そんなことよりも、勉強したくなるような、買いたくなるような、つきあいたくなるような、そんな心理にできる人が、子供も言うことを聞くし、商売もうまいし、モテたりするんですね。

「限定性の原理」を使用して、あえて勉強する機会を与えないのも手だけれど、勉強の場合は継続性が重要だし、勉強できる環境だけは与えておく。
ただ、あとはもうガミガミ言うことはない。
そのかわり、その子供の理想ややりたいことについて話していたほうが、よっぽど事態は改善するね。
子供の好奇心を育むような夢のある話を、たくさん聞かせてあげよう。

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