草食系男子が好きなオタク系女子の恋愛観は現実性がない?

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最近ツイッターを見ていてよく思うことだけれど、草食系男子を好む女子が、本当にふえはじめている。
本来そうしたマインド自体が、わりと人生を成功させる上では問題だったりするのだけれど、価値観は人それぞれということで、今回はちょっと、そうした多数派女子のノリにあわせて、話を進めてみようか。

「草食」という言葉の定義の仕方にもよるけれど、多くの人は「頼りない」とか「甲斐性がない」とか「母性本能をくすぐられる」とか、そんな意味で草食をいう単語を使っている。
だから総じて草食系というのは、思考や性格そのものがネガティブ(いわゆるヘタレ)であることが多いね。
そしてそういうネガティブ思考な男子を好きになる女子というのが、最近は日本中で増えているというわけさ。
ということはだ、女子が草食系男子との恋愛を現実的に成就させるためには、女子のほうが肉食である必要性が、100%ある。

お互いに草食で、男子もネガティブ、女子もネガティブ。
そんな状態では片方がおちこんだとき、もう片方が励ましたり、ぐいぐいひっぱることもできない。
結果、長続きしない恋愛となって、その関係は終わってしまう。
もちろんこれは、経済面でも言えることだね。

そもそも情報起業、自営業、法人などで効率的にお金を稼いでいる人達に、草食な人というのは原理的に存在しない。
これは「お金を稼ぐ」ということが「異性を口説く」ことと、ほぼ同感覚になるからだね。
お客さんにお金をだしてもらうようセールスをしかけることと、女の子に交際をOKしてもらうようアタックすることは、かなり似ている。
たしかに普通のサラリーマン勤めであれば、ただ受け身で働くだけでいいから、草食でも稼げる手法として機能はする。
でも経営者配下の被用者としての稼ぎ方だと、当然稼げるお金には限度がある。
つまり草食というのは低所得層が多い、ということ。
すると草食男子と将来結ばれて一緒に生活することを前提に考えるなら、君たち女の子自身が大きく稼げる状態にならないと、原理的には無理ってことなのさ。

ここで問題になるのが、そうした草食系男子を好きになる女子にかぎって、大体が草食であるということ。
とりわけオタク系女子ほど、この傾向って顕著。
それも自覚のない草食であることが多い。
つまりあれこれ男子に言葉をかけて、ぐいぐいひっぱっているつもりでいても、結局言葉だけで、行動や結果がともなっていない女子。
はっきり言ってしまえば、普段相手の男子に偉そうなことを言うわりには、たいして能力が伴っていない傲慢なタイプの女子だね。

当然そんな恋愛はだいたい失敗する。
相手の男子がおちこんだときに、そのおちこみ具合を広げていってしまう女子が、圧倒的に多いから。
しいていえば、憂鬱を共有することによる絆しかうまれない。
なんともさみしいことじゃないか。
だから彼らはいつもどんよりしているし、人生がぜんぜん楽しくないわけ。
こういう関係をだらだら続けて結婚したとしても、結局は冷めた夫婦仲になって、会話がいっさいなくなっていく。
自分磨きや自己実現もできないまま、そのまま人生がフェードアウト、というわけさ。

もちろん十人十色で、いろんな恋愛観があっていいとは僕も思う。
かく言う僕も、肉食系女子より草食系女子のほうが好きだからね。
別に草食系を好きになったっていいよ。
ただし「母性本能がくすぐられる」という発想で女子が男子を好きになるならば、女子自身にそれなりの甲斐性がないと、現実性がない。
オタク系女子をはじめとする「草食系男子が好きな草食系女子」は、この事実だけは覚えておかないと、足元をすくわれてしまうね。

特にオタク系女子の場合は、クセが強い。
アニメやゲームの中にいるキャラクターのような秀麗な顔や髪型の男子を求めて、やや理想が高くなりがち。
男子側としても「リア充女子よりもオタク女子のほうが恋愛では落としにくい」なんて意見が多いのは、そのためだ。
オタク女子は不相応な要求をしてくることが多いのでとっつきにくく、男子としても、なかなかそうしたオタク系女子を恋愛対象として意識できない。
草食系男子自体はそこらにゴロゴロしているのに、なかなかオタク系女子が恋愛までこぎつけられないのは、こうした背景も一因だろうね。
草食系男子は好きだけど、見た目のさえない、不格好なオタク系男子はアウト、ということ。
でもそんなもの、草食なんだから当然なのさ。
草食系女子にオタク系女子が多いように、草食系男子だってオタク系男子が多くなるのは必至。
顔や髪型を整えるという行動ができている人は、もう既に草食じゃなくて肉食だ。
お金を稼げているかどうかと、同じ理屈だよ。
「顔や髪型の整った草食系男子」という発想自体に現実味がないということも、覚えておかないといけない。

現実的に考えるならば、「草食系男子が好きな草食系女子」諸君は、ロールキャベツ系男子を好きになるしかないね。
ロールキャベツ系男子は現実的だよ。
外見はかわいらしい草食系で、女っぽい男を演出してみせる。
そのいっぽうで、中身はときどき肉食的。
そんな二面性男子であれば、草食を演出しながらもお金を稼ぐことができるし、ちゃんとファッションにも気遣ってくれる。
最近は草食系男子が好きな女子が増えているから、恋愛戦略としてロールキャベツ系を演出している男子も、多くなったね。
だいたいの恋愛系情報商材でも「ロールキャベツ系男子は最強」と書かれている。
ここは男子にとっても、ちょっとした恋愛のコツだね。

結局のところ完全な草食同士でつきあってしまうと、人間的な成長ができる機会はかなり減っていき、お互いをスポイルしあうだけで、恋愛として体をなさなくなっていく。
そもそもなぜ草食男子を好きな草食女子が日本でこんなに増えているのかと言えば、結局浮気をされたくない、あるいは自分に自信がない女子が、増えてきているから。
そんな理由も、多かれ少なかれあると思うんだね。
ようするに、だいぶ依存的なわけさ。
恋愛相手はいても自分磨きができていないから、まったくモテない状態になっていく。
別に相手のことは好きじゃないけれど、別れたら他の異性から相手にされないものだから、その相手にすがるしかなくなる。
形骸的な恋愛関係。
よくある話だろう?
依存的な関係は、そんなふうに悪循環を作りだしていくものなんだ。

お互いを継続的に成長させあう恋愛というのは、非依存の肉食的な要素がないと成立しません。
必ずね。
好き嫌いを変えろ、とまでは言わないけれど、草食好きな女子諸君というのは、たまには経験として肉食系とつるんでみても、いい刺激になるはずだよ。

極論つきあうきっかけ自体は別に、草食同士の恋愛でもいいね。
ただ、そのあともしっかりおつきあいしていくならば、男子か女子、どちらかが少しでも肉食に変わっていく必要性は、絶対にあるよ。
「子犬みたいな彼氏」を飼いたいと思うなら、それなりの甲斐性が女子にも求められる。
その点をしっかり確認しておこう。

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やる気の正しい起こし方

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やる気には3つの種類があって、一番優れているのは、自分が好きなことをつきすすんでやれている状態、すなわち「モチベーション3.0」だと言われる。

1.0 → 生きるためにやる
2.0 → 報酬があるからやる
3.0 → 好きなことだからやる

これはお金稼ぎでも例外じゃない。
最終的には「自分の好きなことだけをやって遊んでいたほうが、お金はたくさん稼げる」ということ。
常識的に考えれば、非現実的かもね?
でも実際これって、昔の偉人のことを考えてみてもそうなんだよ。

たとえばアインシュタイン博士。
彼なんかは本当に自分の好きなことを、ただ徹底的につきつめているだけ。
それだけでいろんな国から重宝されて、結局生活に困ることなんてなくなっているじゃないか。
そもそも生活に困るとかいうレベルのことはもう思考の範疇にすらなくて、世界の科学技術を発展させることだけを、考えているわけ。

もちろん一般人がこういう境地へと行くには、それなりの下積みが必要だ。
結局こういうのって子供のときから極めていかないとダメだし、大人になってからじゃ難易度は格段にあがってしまう。

何の配慮もなく「普通の労働(2.0)が嫌なら、好きなこと(3.0)をやって稼げばいいのに」と言うものならば、そんなものはマリ・アントワネットが「パン(2.0)がないならケーキ(3.0)を食べればいい」と言っているようなもの。
とはいえ、それだけでこの話をすましていても、みんなの人生が変わることがないのも事実。
3.0の思考を、なんとかうまく自分の脳内に持っていくしかないね。

ただ本当のところを言うと、3.0だろうが2.0だろうが1.0だろうが、確固たるモチベーションがありさえすれば、別にモチベーションの種類なんてものは、なんでもいい気もするね。
なんでかって、1.0みたいな生存のための危険回避欲求が強ければ強いほど、結局感受性はとぎすまされるから芸術家タイプになって、3.0にしっかり昇華されるからさ。
昇華。
心理学の世界では、欲求不満のエネルギーが芸術活動へと流れること。
化学の世界では、物質が固体から一気に液体をとおりこして、気体へと状態変化すること。
今回の場合は、どちらの意味でも通じるね。
2.0をとおりこして、3.0に推移している芸術活動なわけ。
何を隠そう僕もおそらく、この1.0が3.0に昇華しているパターンだな。

2.0ももちろん同じことで、つきつめていけば、最終的には3.0へといきつく。
結局2.0ベースで大きく稼ごうとする以上、やがては「3.0になったほうが効率がいい」と気づくことになるからだ。
どんな種類のモチベーションであれ、そのモチベーションが強ければ、しっかり3.0の精神状態を持ってくることができるんだ。

あとは「石の上にも三年」の精神。
ブログとかユーチューブとか、メディア構築に全身全霊を注ぐだけ。
昔はアインシュタインみたく徹底的に特定分野をつきつめないと難しかったけど、今はネット社会だから、自分のことを喧伝するのがだいぶ楽になった。
ネット上で自分のメディアを作ることで、3.0の状態を実現する敷居が、かなりさがったんだね。
今はアインシュタインみたいな超絶的な天才専門家にならなくても、プチ専門家みたいな感じになれさえすればいい。
だから多くの人が、好きなことをしながら稼ぐことができるんだね。

みんなは今の苦しい生活から、いったいどんな未来を夢見ているだろうか?
その夢が継続するようなら、モチベーションもまたしっかりつづくさ。
そしてみんなの好きなことって、いったいなんなのだろうか?
その好きなことがあれば、徹底的に勉強しまくって、そのことをまとめたブログを作って稼ぐことができるさ。
好きなことがない場合でも、なんでもいいから勉強してみて、その内容をブログにはきだしてみればいい。

僕の持論だけどね、好きなことも嫌いなことも、極論これからいくらでも変えていくことができるのさ。
長い人生において好き嫌いなんて簡単に変節しちまう以上、あんまり好き嫌いにこだわるのはよろしくないね。
これ、想像以上の機会損失だよ。
何事も形から入る、ってのは重要。
やっているうちにそのうちそのことが好きになっていく。
そんなことは人生では往々にしてあることさ。
好き嫌いにこだわりすぎて新しいことにチャレンジできなくなっていく、なんて状況だけは、なんとしても避けていかなきゃね。

もし長期間、実際に同一テーマのことを勉強して、ブログでそのことをまとめてみて「やっぱり自分にはあわないな」と思ったら、そのときはそのときでいいじゃないか。
そのままそれはやめて、次に進んでいけばいいんです。
でもなにもしなけりゃ、そういう経験すらない。
どんな成功者も、幾多の失敗をくりかえして、たった一度の成功をようやくつかんでいる。
「まだそこまで好きになれないから」と尻込みして、いつまでも行動しないことのほうが、人生をよりリスクへと晒しているよ。

お金も人間の心も、基本的には体と同じ。
動かさなければ、どんどん鈍っていく。
だからお金を銀行に死蔵しすぎてはいけなくて、使うべきところではしっかり使っていくべきだし、せっかく心がいきりたっているのに、実際の行動にうつせず、日々を水の泡にするのも駄目。
思い立ったら、どんどん行動していこう。

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夢中になれるものを探そう

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正月ということもあって、先日はおじいちゃん・おばあちゃんの家に遊びに行ってきたよ。
画像はそのときに食べた鰻重。

偶然おばにあたる人(僕はお姉ちゃんと呼んでる)の子供、ようするにいとこにも会ってきちゃった。
小学生になりたてで、これがまたかわいい。

でもね、それだけじゃない。
いとこはリビングルームとは別の部屋で、電車のおもちゃ(プラレール)を使って遊んでいるのさ。
そしてJR東海道線の駅名をひとつずつ、東京から新神戸まで、順番に言っていくわけ。
どうやら脳内にはひととおり駅名がインプットされている模様。
お風呂場や寝る前みたいな暇なときには、それを脳内で反復・復唱しているんだね。
それで自然と覚えてしまう。
他にも、電車の時刻表や地図を見るのが好きらしく、旅関連のテレビ番組が好きみたい。

なんだか「いいな」と僕は感じたね。
僕も小学生時代、そんなふうに化学のすべての元素記号・名称の反復を脳内でやって、暗記していたことがある。
幼稚園のときには、小学校6年生までの漢字を、意味もなくすべてノートに書き並べたりしていたこともあったな、なんて思いだしたり。

何が言いたいのかといえば、つきつめてなにかに夢中になれるということは、本当に大事なことなんだ、ってこと。
これも僕が普段言っていることだけど、こういう行為って、別に頑張ってやっていることではない。
自分がやりたいから、やっているだけ。
こういう自然な意欲が、結局のところお金稼ぎや恋愛にも活きてくるのさ。

子供のころは、とにかく自分がやりたいと思ったことは自由にやったほうがいいし、親もそれを認めてあげたほうがいいね。
世界への好奇心が、親の過保護によって抑圧されると、結局子供はなにもしなくなるし、物事に無関心な人生しか送れなくなってしまうよ。

すでに大人になっている人も、見栄を気にしないで童心に返って、なにか夢中になれるものを探してみよう。
ゲームだって別に良い。
そのゲームのことをよく知って、攻略サイトを綿密に作って広告をはれば、結果的に稼ぐことができるんだから。
結局のところ、どれだけつきつめられるかの専心の精神さ。
人生はすべて0か100であってしかるべき。
中途半端な50ですますなら、最初からやっちゃいけない。
そう思って人生を生きれば、おのずと人も成果も、自分についてくるものさ。

余談だけど、いとこにはお年玉をあげちゃった。
お年玉をあげるのは、はじめての体験。
まだ年齢的に自分がお年玉を誰かにあげるのは、はやすぎるようにも思ったけど、将来有望ないとこにむけての贈り物だね。

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