正月だからって、別に気をゆるめなければいけない理由はない

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正月になると誰もが怠けてしまう。
だからといって、別に自分までそれに流される必要性ってのはない。

正月とかお盆とか、もっと言ってしまえば土日祝日とか、そういうときには日本人というのは休みがち。
これは日本人が風習を重んじるからこそ、起きる現象だね。
だけど風習に従うということは、言い換えれば形骸化している、ということ。
昔の決め事に従って「右にならえ」の行事を、淡々とこなしているだけ。
そんな風に昔ばかり見ていると、現在はもちろん、輝かしい未来まで失うことになるよ。

逆に今みたいに、みんなの気が緩んでいるときにこそ、バリバリ行動をおこせる人というのは、他人と比べて大きく差をつけることができる。
当たり前だね。
みんながお餅や数の子を食べているあいだにも、勉強をしてみたり、記事を作ってみたり。
そういうことの積み重ねってすごく大切だ。

大晦日の大掃除だってね、別に義務じゃないんだよ。
むしろ定期的に掃除していれば、そんなものは不要なはず。
年賀状にしても同じ。
お互いに「あけましておめでとう」と言い合って、それで終わり。
創造的な価値をうみだしてるわけではないね。
正直年賀状という習慣も時間の浪費。
本来であれば、切り捨てていくべき習慣だと僕は思っているよ。

お年玉にしても、なんとも言えない。
ツイッターの書き込みを見てると「お年玉10万円じゃ足りない、もっとよこせ」などとつぶやく子供もいるほど。
いやはやまったく、ひどい有様じゃないか。

「正月気分を味わうな」とまでは言わないよ。
でもね、もしみんなが今の生活に余裕がなく、不満があるのだとすれば、今やるべきことは、正月をのんびり過ごすことではない。
それだけは確かさ。

正月に自分の人生を支配されるのは、今年で終わりにしよう。

僕も今日は、無線のインターネット接続に興味があったものだから、そのことについて調べて、ついさっき、ワイマックスを契約したところ。
やるべきことがあるのなら、正月だろうとお盆だろうと、とっとと片付けてしまう。
僕も昨月でネット収入が月100万円を越えたけどね、油断せずに、そんなふうに日々をすごしているよ。

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今の純文学がダメだなと感じたワケ

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読んでいるだけじゃわからない。
実際に小説を書いてみて、だからこそ気づくことも多かった。

純文学というのは、ことごとく無駄に満ちている。
まず形式ばりすぎている。
純文学には形式というものがあり、「ここを脱すると純文学ではない」という基準が、確かにある。
ただその基準は、明確ではないね。
読んだり書いたりしているうちに、一種のセンスとして心身に身につくものだ。
たとえば会話文のあとに、いちいち「~とAは言った」のような表現をいれなければいけない、とかね。

このセンス、はたして本当に必要なものなのだろうか?
まずこれ、クリエイティブな活動とは言えないね。
精密さがものを言うから推敲がたるいし、正直退屈と言わざるをえない。

もう根本からして、コンセプトが間違っているんだよね。
ハイカルチャーの大体は変化を恐れる。
だから発想も概念も固定化、陳腐化しやすい。
最近では型破りな文体で新人賞をとる人が多いけれど、結局そういうのがだいたい一発屋で終わるのも、ひとえにそうした理由じゃないかな?
なんともブレブレな状況さ。

なんであれ、ネット上の文筆のほうが魅力的と感じたのは、こうした推敲や形式にこだわる時間をかけるのがくだらない、と感じたからなのだろうね。
ネット上なら、本当にノリでどんどん書いていける。ストレスもない。

なにより現実的な問題として、報酬が全然違うのさ。
本の印税報酬と、ネット上の文筆でのアフィリエイト報酬や商材報酬。
圧倒的に後者のほうが効率がよすぎるからね。
前者は労多くて益少なし。

小説家になって稼ぐよりも、ネットの文筆で稼ぐほうがよっぽど楽。
少なくとも新人賞をとるよりも、ネットで月50万円以上を稼ぐことのほうが楽ということは、実例である僕を見ていればわかることだろう。
それくらい難易度や快適性に、違いがあるのさ。

時流がもう書籍よりネットである以上、純文学へのこだわり・優先順位は、自分の中ではだいぶさがっている。
ただ今でも、まったくこだわりがないわけじゃないんだね。
それはいったいなぜなんだろう?
自分でもちょっと、よくわかってない。
でも「僕こそが純文学だ」と言いたいなにかが自分の中にあることだけは、確かだな。
哲学や思考、生き様、そうしたものを集積したものが、純文学だと思っている。
逆を言えば、これさえ体現されていれば、あとは時代に応じて変わっていけばいいのさ。
大衆文芸やサブカルとの差をなくしてしまい「形式ばらずに面白ければいい」という風潮に、変えていけたらいいな。

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自分の好き嫌いにこだわってはいけない

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時代の潮流というものが変わっていくように、人間一個人の好き嫌いもまた変わっていく。
だから人が求めるものも、どんどん変わっていくことになる。
つまり変化できない人間というのは、いろんな人から見捨てられてしまう運命にあるということ。

にもかかわらず、人間って基本的には自分にしか関心がない。
自己分析とか自分の好き嫌いとかね、そういうものにしか目を向けない。
そういう人達はだいたい余裕がないから、他人のことなんていっさい眼中にないんだね。
「他己分析より自己分析が好き」は、稼げない、モテない、夢をかなえられない、という人の共通点のひとつ。
若いときであればあるほど、他己分析や他人の好き嫌いには目をむけたほうがいい。
10代の子供がアイデンティティーの確立に時間を注いでばかりなのは性質上仕方ないけれど、20代、30代と大人になってもまだこんなことを続けているのは、肩をすくめちまうね。
子供の段階で他人のことをしっかり考えられる人になっていれば、成功はだいぶ早期のうちにやってくる。

好き嫌いなんてね、どんどん変わっていくものなんだよ。
1年もしたら別のモノにはまってたり、飽きていたり。
もともとは理系科目が好きだったけれど、気がついたら文系科目が好きになっていたり、好みのタイプが胸の小さな女の子から、胸の大きな女の子に変わっていたり、はたまたゲームばっかりやってた人が、お金持ちになったとたん、いろんな異性とデートするようになったり。
そんなことは世の中、いくらでもある。
世間もそうだけど自分という存在もまた、そんな風にちっぽけにできているのさ。

自我同一性なんてものはない。
そのことに気づけた人がいちはやく幸せを手にする、それはたしかに言えることだね。
よしんば自我同一性があると思いこんでいる人も、だいたいそんなものは頑固を押し通しているだけにすぎないんだからさ。
ずっと同じ場所から動かずにいると、当然思考も停止するし、発想も陳腐になるだけ。
脳にカビをはやしたくなければ、はやくこんな負のスパイラルからは脱却すべきだね。
必要とあらば、周囲の人間関係や環境を変えるすらいとわない。

諸行無常。
自分なんてものは無でいい。
不特定多数が求める自己を、常にクリエイトしていく。
そのほうがいろんな人に好かれるし、お金を稼げればモテたりもする。
だから自分なんかよりも、他人を分析することのほうが大切なんです。

変わることを恐れてはいけない。
他人からの影響は、素直にうけいれよう。

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